南足柄市の歴史

東西のヒト、モノ、文化をつないだ南足柄の歴史

先史、古墳時代

市内には、現在九十八ヶ所の過去の人々が生活した痕跡である遺跡が確認されています。
また、県・市指定文化財が48件あり、過去からのメッセージを現在に伝えています。
南足柄に人がいた最も古い時代は、2万~3万年前の後期旧石器時代で、黒曜石で作られた槍の破片などが出土しています。
約1万年間続いた縄文時代になると、遺跡の数は多くなり、狩野の馬場(ばっぱ)遺跡や関本の関本出口(塚田)遺跡の調査などで、様々な文様が入った縄文土器や竪穴式住居の跡など多くの資料が確認されています。
縄文時代の後、三世紀の終わり頃まで続いた弥生時代の南足柄は、怒田上原遺跡などで、条痕文土器といった弥生時代の古い時期に相当し、神奈川県内でも類例の少ない資料が多く出土しています。
市内で出土している縄文土器や弥生土器は、西の静岡県や山梨県で出土している土器との共通性が見られます。
この時期には既に西と東の交流が活発に行われていた証拠と言えるでしょう。

古墳時代になると、近畿地方に成立した大和王権によって、前方後円墳などの様々な形をした高塚式の墳墓である古墳が造営されました。
その影響を受けて、周辺地域も古墳を造営するようになったと考えられています。
南足柄では6世紀以降に古墳が造られ始めたと考えられており、それらは円墳と呼ばれる古墳時代の後期に多いものでした。
円墳には岩原の黄金塚古墳群や関本の塚田二号墳などがあります。
塚田二号墳の副葬品として鐶頭(かんとう)太刀などが出土しており、大和王権とのつながりが推測されます。
8世紀の初めに編纂された『古事記』の一説には倭建命(やまとたけるのみこと)が足柄峠で足柄明神の化身である白鹿を蒜(ひる)で打ち殺したことで東国が平定されたと記されています。

奈良・平安時代

朝日観音堂

奈良・平安時代に入ると、関本から足柄峠へ抜ける道は、足柄道、足柄路と呼ばれて官道として機能しました。
9世紀の初めに起きた富士山の噴火で一時通行が途絶えてしまうものの、1年で復旧し、その後も活用されました。
『万葉集』や『更級日記』などには足柄峠や古道についての記述を見ることができます。
南足柄には平安時代に作られたとされる仏像が多く、怒田の朝日観音堂の聖観音立像や兜跋毘沙門天立像、中沼薬師堂の薬師如来坐像などがあります。


中世、近世

大雄山最乗寺

中世は武士の時代であり、鎌倉幕府ができてから、豊臣秀吉が小田原を攻めて後北条氏を降伏させるまでとなります。
中世の終わりごろの南足柄には多くの城が作られました。
後北条氏の前に南足柄一帯を支配した大森氏の居城であったとされる岩原城や、後北条氏の第一の家来であった松田氏が城主であった浜居場城、西方警備の要であった足柄城などがあります。
当時の領主たちは東西の交通を制限するために苦心をし、足柄峠を中心として南北の尾根上に砦を、街道筋に城を配置していました。
また武士の多くが禅宗を信仰したことから、大雄山最乗寺や塚原の長泉院などが中世に開山、開基しています。


文命堤の風景

近世に入ってしばらく後に徳川家康が江戸幕府を開くと、足柄平野を穀倉地帯とするために酒匂川の大口、岩流瀬(がらぜ)にそれぞれ土手を築いて稲作をしやすい環境にしたと考えられています。
箱根に東海道五十三次の関所が整備されたことで、これまで交通の要衝として機能していた足柄道は、東海道の裏往還である矢倉沢往還(おうかん)として整備されました。
矢倉沢には矢倉沢関所が設けられて、通行人の取り締まりを行いました。
相模人形芝居は、江戸時代に班目に逗留した旅人から教わったことが始まりと言われており、主要な街道が箱根方面へ変わった以降も、多くの人々が南足柄の地を往来したと考えられます。
江戸時代の中頃に富士山が噴火し、大口や岩流瀬の土手が決壊して流域の村々を押し流してしまいました。
これを重く見た八代将軍徳川吉宗は、南町奉行大岡越前守に命じて川崎宿の名主であった田中丘隅(休愚)に土手の復旧を行わせました。
この事業に一定の成果を為した丘隅は大口、岩流瀬土手を文命堤と名付け地元民衆による日頃の護岸、治水が重要であることを説きました。


明治、大正、昭和

明治22年に町村制が施行されて、南足柄、岡本、福沢、北足柄の四ケ村が誕生しました。
学校も明治6年に化源館(現在の南足柄小学校、北足柄小学校)が、明治8年に日向館(現在の岡本小学校)が、明治34年には福沢小学校がそれぞれ開校しました。  
明治22年に現在の御殿場線が東海道本線として開通したことで、これまでに比べて大規模で迅速な輸送が可能になりました。
明治33年には、国府津、湯本間に鉄道が開通し、大正10年には足柄自動車(現在の箱根登山バス)が松田、関本間で運行されるようになりました。
さらに、大正14年には大雄山線が開通し、一層にぎわいを見せるようになりました。
昭和2年には、小田急線新宿、小田原間が開通し、首都圏との交通が便利になりました。  

明治から昭和にかけて急速に近代化が進み、交通手段が多くなったことで、これまでの徒歩による移動で使われてきた足柄道の重要性は大きく薄れることになりましたが、東西を、時に分け、時につないできた南足柄の歴史はこれらの道によって紡がれたと言っても過言ではないでしょう。

最終更新日:2014年05月28日

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