範茂史跡公園
コンビネーション遊具
芝生広場・パーゴラ
「範茂史跡公園」は、藤原範茂卿の墓を中心に整備し、芝生広場、遊具広場があり、トイレ・水飲み場・四阿(あずまや)などを設置した公園です。
施設概要
主な施設
- 芝生広場
- コンビネーション遊具(滑り台等)、スプリング遊具等
- トイレ ※車イス用トイレあり
史跡
説明板
藤原範茂卿の墓について
公園内に設置されている説明板の内容より
藤原範茂卿(ふじわらのりもちきょう)の墓
鎌倉時代、北条義時が幕府の執権(将軍を助けて幕府の政治を行う最高の職)の時に、後鳥羽上皇は政権を朝廷(天皇が政治をとり行う所)側に取りもどそうとして、公卿(朝廷に仕える人びと)の人たちを集めて兵をあげましたが、幕府に敗れて上皇(天皇がその位を譲ったのちの称号)をはじめ多くの人がとらえられ罰せられました。これが承久3年(1221年)の承久の乱です。
その時、上皇側の公卿で参議(官職、公的な地位のこと)藤原範茂卿はとらえられて京都から鎌倉に送られる途中、足柄峠を越えて関本に至りました。明日はいよいよ鎌倉です。着くと、そこで首を切られてしまいます。
この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないと言うのです。
範茂卿は役人に頼んで近くの清川(今の貝沢川といわれている)で死なせてもらうことにしました。着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川をせき止めて入水し最後をとげました。役人達もあわれに思って高台に葬りました。それがこの宝篋(ほうきょう)印塔のあるところです。
辞世の歌に
思いきや 苔の下水 せきとめて
月ならぬ身のやどるべきとは
と残されています。
鎌倉時代、北条義時が幕府の執権(将軍を助けて幕府の政治を行う最高の職)の時に、後鳥羽上皇は政権を朝廷(天皇が政治をとり行う所)側に取りもどそうとして、公卿(朝廷に仕える人びと)の人たちを集めて兵をあげましたが、幕府に敗れて上皇(天皇がその位を譲ったのちの称号)をはじめ多くの人がとらえられ罰せられました。これが承久3年(1221年)の承久の乱です。
その時、上皇側の公卿で参議(官職、公的な地位のこと)藤原範茂卿はとらえられて京都から鎌倉に送られる途中、足柄峠を越えて関本に至りました。明日はいよいよ鎌倉です。着くと、そこで首を切られてしまいます。
この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないと言うのです。
範茂卿は役人に頼んで近くの清川(今の貝沢川といわれている)で死なせてもらうことにしました。着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川をせき止めて入水し最後をとげました。役人達もあわれに思って高台に葬りました。それがこの宝篋(ほうきょう)印塔のあるところです。
辞世の歌に
思いきや 苔の下水 せきとめて
月ならぬ身のやどるべきとは
と残されています。